言葉を届ける 難
物凄い向かい風の中、僕は前を歩く友人に
「風すげえな!」
と言った。
しかし、僕の細い声は風に跳ね返されてしまい、友人の耳たぶにしがみつく所までも行かなかった。
それならばと足を早め、友人の前に位置取り振り返って、風を背に受けながら
「風すげえな!」
と叫んだ、僕の細い声は風に乗って弾丸のように走った。
友人の眉間に直撃したそれは皮膚を破り頭蓋を割って貫通した後、風下の彼方へ消えた。
友人は倒れ、黙ってしまった。
言葉を人に届けるということは難しい。
風の強い日は尚更だ。
祖父の「マジで」
三連休だったので、久々に実家に帰省した。
僕が幼い頃から立て付けの悪かった玄関の戸が綺麗に修復されており、
以前と同じように力を込めて開けようとすると物凄い勢いで戸が滑って行って少し焦った。
台所に祖父がいたので、帰ったよと声をかけると、開口一番。
「結婚しなさい!時は来たぞ!」
唐突にそう言われた、祖父の目には異様な力がみなぎっていた。
その眼光は僕の目を見てはおらず、僕の体の真ん中辺りを凝視していた。
その辺りに、何か僕の、コアの様な、魂の様な物があり、祖父はそれに話しかけていたのだろうか?
「いきなり何〜?」
と笑って濁していると、
「いや、マジで」
と祖父が言った。
祖父がマジでという言葉を知っているとも思わなかったし、知っていてもそんな言葉使わないと思っていたので、
マジで結婚しなきゃなんないのかなと思ってしまった。
エッチな本を僕は買ったことがない
27年間の人生の中で、僕はエロ本を買ったことが無い。
僕は高校を卒業するまでは離島に住んでおり、高校を卒業して島の外に出る頃には携帯電話を手にしていた。
その端末があれば、わざわざ足を運んで、羞恥心と格闘しながらエロ本を買う必要は無い。
家にいながら僕達は自分の好むエロを密かに楽しむ事が出来た。
島を出て、一時期大阪にいたのだが、
親しくしていた同い年の友人が、コンビニで一冊のエロ本を手に取ると、単品でレジに持って行った。
お菓子やジュース等をお供にし、カモフラージュになっていないカモフラージュもせずの、エロ本単騎。
「すごい」
しかもレジの女の子は当時の僕らと同い年くらいの若い子だった。
更にそいつは会計中ずっとその女の子に話しかけているのだ。
僕は愕然とした。
会話の内容は聞き取れないが、女の子のどぎまぎした表情から察するに、何か卑猥な事を言っているに違いない。
その光景は公然わいせつ以外の何物でも無かった。
「この人痴漢です!」
と女の子が今にも叫ぶんじゃないかと気が気ではなかった。
会計を終えると、そいつは嬉々とした表情で僕を呼んだ、二人で店の外に出る。
振り返ると、レジの女の子は赤面して、乱れてもいない髪を何度も直していた。
「これ、やるわ」
そいつはエロ本の中身を一瞥もせず、袋ごと僕に投げてよこした。
「え、読まんの?」
「うん、さっきレジで会計してた瞬間が一番楽しかった、ああいうのが良いんだよね!だから、俺にとってのエロ本の役目はもう終わり」
当時の季節は夏、大阪に降り注ぐ日差しは牙みたいに鋭かった。
噛み殺されそうな日差しの中のそいつの笑顔を今でも忘れない。
あんなに爽やかな笑顔を、僕は見た事が無かった。
夕日の成分が、今日は心地良かった。
今日はクーラーの効いた部屋で一日中ゴロゴロしていた。
この日記を書いている最中もゴロゴロしている。
こんなただただ怠惰を極めたという事を書く必要は無い。
しかし、今日の怠惰は特別だった。
日が傾いてきて、光線の色がオレンジに変わる。
あの光には厄介な成分が含まれていると僕は思い続けている。
深爪の隙間から入り込んで、光は僕の中で眠っている、悲壮感や焦燥感を揺り起こして僕を攻め立てさせるんです。
今日一日グータラして、何て意味の無い一日を過ごしたんだ!
ダメな奴だ。
そんな風に、あの光は僕を苛む、
僕みたいな人間はどこにでもいるのだから、きっと、沢山の人が苛まれているだろう。
そんな人間が増えれば増えるほど、水平線に浮かぶ憂鬱の象徴は、美しくなるのだろうか?
光線が僕の中に入り込んできた。
いつもと違った。
体の内側がぽかぽかと暖かい。
涼しい風が、僕の表面を撫でる。
「おつかれ」
そんな声が聞こえた。
僕の中の暗い感情達は、穏やかな寝息を立てて眠り続けている。
声の主は誰だろう?
夕日に連れ去られた昔の僕が、僕を励ますために、水平線から泳いでやって来たのだろうか?
夏が来る、それなのに、僕の血は薄い。
先々月の頭から、運動後に酷い息切れと耳鳴りがする様になった。
特に耳鳴りが辛い。
心臓の音が頭の中に大音量で響くのである。
どくんどくん、なんて生易しいものでは無く、ドン!ドン!ドン!と、さながら和太鼓の様な振動が、僕の鼓膜を叩くのである。
体の中で祭りが行われている気分だった。
だんだんと症状は悪化し 、終いには階段を少し登るだけで、耳鳴りの後、頭の中がジーンと痺れる様な感覚と共に、意識が遠のいていく。
「やっとっせー!やっとっせ!」
地元の盆踊りで発する合いの手が、僕の頭の中にこだまする。
そんなお祭り状態で迎えた毎年恒例の健康診断、案の定引っかかった。
診断結果は「貧血」要精密検査。
ヘモグロビンの数が、平均の三分の一にまで減少しているのだそうだ。
健康な人の体内には、パチンコ玉一個分の鉄分が貯蔵されているらしい。
ということは、パチンコ玉の三分の一の鉄分しか無いという事なのだろうか?
「もう人の血吸うしかないな」
そんな風に会社でいじられる様になった。
「○○さんの血、吸わせてもらいなよ」
僕と同い年の女性社員に話題が飛び火。
これはセクハラじゃないか?
「少しなら良いですよ。高いですけど」
ノッてきてくれた。なんと寛大な女の子だろう。
「でも、処女の血じゃないとダメですよ!」
そんな超ド級の爆弾を口からこぼしかけて、すんでのところで飲み込んだ。
窓から差し込む日が鋭い。
まるで牙の様だ。
ああ、夏が来る、それなのに、僕の血は薄い。